■より詳しい「楠公史跡マップ」がこちらにあります。
① 楠公誕生地
楠木正成公は、1294年4月25日に、千早赤阪村水分山の井で生まれたと伝えられている。
明治8年この地を訪れた大久保利通卿により、史跡の保護と顕彰を勧められ、「楠公誕生地」の碑が建てられた。
碑の文字は、幕末の三剣豪の一人、桃井春蔵直正が書いたと伝えられるが、富岡鉄斎との説もある。
※ 楠公誕生地石造物配置図 →
楠公誕生地近くには、正成公誕生の際に湧き出る水で湯を沸かして産湯に使用したと伝えられている「楠公産湯の井戸」がある。
*尚、現在は災害復旧工事の準備中のため見学できません。
② 下赤阪城跡(赤阪城跡)
楠木正成公が最初に挙兵した城で急ごしらえの粗末な城だったらしく、太平記にもその様子が書かれている。
昭和9年3月に国の史跡に指定されている。
付近に所在する「下赤阪の棚田」が、平成11年に「日本の棚田100選」に選ばれ、観光客やカメラマンに人気を博している。
③ 上赤阪城跡(楠木城跡)
上赤阪城は金剛山の支脈のひとつにあり、海抜350m。本丸跡は見晴らしがよく、六甲連山から明石海峡大橋まで見えることもある。
帯曲輪(おびくるわ)堀切(ほりきり)など山城の様子が今も残っている。
昭和9年3月に国の史跡に指定されている。
④ 千早城跡
元弘3年(1333年)2月,上赤阪城や吉野が落城し、敵の北条軍100万は千早城に攻め寄せた。これを迎え撃つ楠木軍は、わずか1000人足らずであった。しかし、正成公の智謀と勇気により、100日の籠城を全うし、建武の中興がなし得たと言われている 。
二の丸跡には、千早神社があり、正成公、正行公父子が祭られている。
昭和9年3月に国の史跡に指定されている。
⑤ 寄手塚・身方塚「石造五輪塔」
楠木正成公が、一連の戦いで命を落した将兵の霊を弔うために建てた、と言われている。敵(寄せ手)の墓を味方(身方)よりも大きくしたことが、後の日本が国際赤十字連盟加盟の時に評価されたと伝えられている。
どちらも森屋地区の墓地の中にあり、今も地元の人達によって供養されている。
⑥ 奉建塔(楠公600年記念塔)
「大楠公」没後600年記念として昭和15年に建てられた。「浄心寺塞址」と呼ばれる上赤阪城の出城跡に、徳島の画家・森下白石氏が発起人となり、全国の児童、生徒、教職員などから3銭から10銭の寄付を集めて、当時のお金で10余万円で建てられた。
石塔の高さは43尺(約13m)。これは、正成公戦死時の年齢が43歳であったことにちなむ。正面に「非理法権天※」と彫刻されている。また、基部銘板には「よろずよの きよき かおりは 流がるらん あかさかの山の 菊のしたみず」(池辺義象) の句が刻まれている。
⑦ 建水分神社
本殿は春日造り。左右両殿は流造りで、渡り廊で連結した水分式建築。後醍醐天皇の勅命により楠木正成公が現在地に再建した、とされている。
摂社に「南木神社」があり、楠木正成公を祀っている。
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