■楠公アーカイブ


大楠公:楠木正成公 Profile

・永仁2年(1294)千早赤阪村水分に生まれる。幼名「多聞丸」

・正成公が生きた時代は、大きく時代が変わるときでした。

・元弘元年(1331)、後醍醐天皇の勅使を迎えて、下赤坂城にて鎌倉幕府に対して討幕の兵を挙げる。

・元弘3年(1333)、少数の軍勢で千早城に100日間ろう城し、幕府軍をくぎ付けにした間に味方の新田義貞らの軍勢が鎌倉を陥落する。正成は鎌倉幕府を滅亡に導いた功績者として後醍醐天皇から、従五位下という官位が与えられ、摂津・河内の守護となる。

・建武3年(1336)、兵庫県神戸市湊川の戦いで敗れ自害したとされる。

 




■正成公と菊水紋

現在の天皇家の御紋は「菊花紋章」ですが、花びらが16枚あることから「十六八重表菊」と呼ばれています。この御紋は「八重菊」を家紋にしたもので、1869年からは天皇と東宮しか使用できません。その起源は後鳥羽上皇だとされています。菊の紋は多様で使用する家も多く、公家では広幡・水無瀬・七条・桜井氏らが用い、武家では足利尊氏が後醍醐天皇から、また豊臣秀吉が後陽成天皇から下賜され用いました。正成公も後醍醐天皇からその忠義への恩賞として「菊紋」を下賜されますが、あまりにも畏れ多いとして下半分を水の流れにした「菊水紋」を使用しました。一口に「菊水紋」と言っても正成公に関わるものでも様々なデザインが存在します。下に示すのはその代表的なものです。


■楠公誕生地石造物配置図


■縄張図